シナト
日本にはやたらと風の名前がある。
そのなかでシナトをハンドルネームにしたのは、響きがなんとなくカムイ伝ぽかったからかもしれない。
カムイ伝は子どもの頃読んでいた。
泥のようなタッチで、かといって汚くなく、どちらかといえば高潔を志向してるかもしれないそれはへんな艶めかしさがあった。
カエルがたまにでてきて、跳ねたり食べられたりするシーンがあったような気がするがそれが印象に残っている。気がする、で印象に残っている、とは適当な話だが、ぼくは記憶力がすこぶる弱い。昔から弱かったかは記憶力がすこぶる弱いため、覚えてないが、昔はそんなことを思わなかった気がする。人間が人間的であるためには、記憶はとても本質的であり、記憶がないとは歴史がないことであり、歴史がないとは人間ではないということだ、そう考えるとヤダ。
ムネモシュネとは記憶を司るそうだ。昔ぼくはムーサの母が記憶に関係しているということを知り、その記憶とは原初の記憶なのだと考えていた。原初の記憶とは、多分プロティノス的な一者のようなゲーテの原植物のようなものを想定していた気がする。
音楽は何故か、こうした神秘的な思想と親和性が高いように思う。音楽を感受する脳の部位が宗教に関連する部位と近いからだというような説をどこかで読んだ気がするが、はてさて。大多数の人にとって音楽はAKBかビヨンセのことかもしれないが、ぼくにとっては多分昔から異界へと繋がるなにかだった。
それだからプロティノスにも寄り道したのだが、一者的なものを、一神教によらず、新プラトン主義によらず、21c的にアップデートしたものを作りたいのだが、はてさて。まあそれはぼくの役割ではない。
ちょろっと齧った思弁的実在論は神を想定していたと理解しているが、何というかもうちょっとロシア的なヤバさに接続して欲しいなーみたいな。コクが足りない気がする。
ジョスカンデプレやバッハがどんな風に宗教と対峙し、体験し、生きたか、彼らの音楽に、本当にはどんな意味を持つか、知りたいと思っている。
音高を定め、ざるを得ない、人間の音楽にあって、政治と宗教と分離している音楽は、物足りないというか、それは時に音楽の残滓ですらある。
真夜中の投稿ですら臆することなく投げる。
音楽自体の恍惚性ゆえの宗教性の内在はあるかと思うが、なんかそういう事だけじゃない。
かたや罪は風で吹き飛ばされるといい、かたや罪は原罪として揺るぎなく根深くセットされている。音楽の大伽藍をうちたてたのは、後者だった。
そしてリバーブがあった。
オリヴェロス。ハイクス。シトー会。
日本には乾いた木の舞台と、湿り気と反閇がある。
はてさて。